日々の読書、愛犬たち、翻訳、手芸など


by ars_maki
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カテゴリ:未分類( 163 )

TIME the propaganda media

I've been rejected and can't make comments on the article.

So I just leave them here.

The US military document in 1944 says a comfort girl is a camp follower
or hooker. Comfort women were no sex slaves. Seoul University Professor
Emeritus Ahn Bin Jyuk states there was no Japanese military involvement.
In short, comfort women were prostitutes. One should take a look at one of
the comfort women’s saving account book, who earned as much money
to build several houses in those days. They needed to have their parents'
or husbands' consents. They were not forced into prostitution, for Korean
policemen, Korean men who were in charge of public positions talked to
those Korean girls and women, who became comfort women.
Also brokers were Koreans who talked to Korean girls and women with
sweet words. The Japanese Imperial Army issued the warning against
vicious brokers and pimps. One must be reminded that it was Japanese
that abolished the slavery in Korea.  US should not involve itself with
this vile and malicious propaganda, that has been raged by Korean lobbyists,
funded by the Unification Church, backed up by SWC as well as China money.
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by ars_maki | 2014-03-28 14:07
「731部隊によって解剖される中国人被害者」というのは誤りで、
「済南事件で殺害された日本人被害者」というのが真実

d0112879_8182936.jpg
この写真は1928年に青島新報から出版された「山東省動乱記念写真帖」に掲載された写真です。
同誌によると、この写真は『山東省動乱記念写真帖』(昭和3年青島新報(株))に掲載され、
SAINAN事件(済南事件)の被害者を写したものという解説になってる。
撮影者 :不明
撮影場所:済南病院
撮影時期:1928年(昭和3年)5月

★SAINAN(済南事件)事件
1928年、中国に居留していた日本人(民間人)に対する中国兵による略奪、陵辱、暴行、殺人事件。
掠奪被害戸数136戸、被害人員約400、生活の根柢を覆されたもの約280、との記録が残っている。

★SAINAN事件の検死結果(中国政府も同席し、確認)
■FUJI KOJIRO
・頭と顔の皮を剥がされる。
・眼球を抉り取られる。
・内蔵が露出。
・ペニスを切除。

■TOJYO YATARO
・両手を縛られ、地上を引きずられた形跡。
・頭蓋骨を破砕され、小脳が露出。
・眼球が突出している。

■TOJYO KIN(女性24歳)
・顔、頭、腹部の皮を剥がされる。
・陰部に木片が突き刺さっている。
・両腕を帯で後ろに縛られている。
・顔面、胸部、乳房が刃物で刺されている。
・肋骨を折られている。

■INOUE KUNITARO
・顔面破砕。
・両眼を摘出して、石が詰められている。

■MIYAMOTO NAOHACHI
・体の全体に銃、刃物による傷。
・ペニスを切られている。

■TAHIRA SADAICHI
・頭に鉄の杭のような物を打ち込まれている。
・腹部を切り裂かれ小腸が露出。

■NAKAZATO SHIGETARO
・顔面壊滅。
・頭蓋骨粉砕。
・身体に無数の傷。
・肺に銃弾。

■TAKAKUMA UME(女性)
・肋骨が折られる。
・右の眼球が飛び出ている。
・全身火傷
・左膝から下が無い。

その他の死体は「顔面を切り刻まれた」&「身体をバラバラに寸断された」ので、特定不可能・・・。 
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by ars_maki | 2014-02-10 08:14

慰安婦問題の20年

慰安婦問題は表面化してから約20年になるが、当初は必ずしもこんな
意気揚々、得意げな雰囲気ではなかった。
たとえば1993年8月、例の「河野談話」が出て日本の謝罪で
韓国政府(金泳三政権)がこれを評価し、 外交決着を“宣言”した際、
韓国マスコミにはこんな社説が出ている(朝鮮日報8月5日付)。

 「過去のために今日、明日のことが一歩も進まないという状況は現代的外交ではない。
問題があれば並行して議論するという姿勢が必要だ。
従軍慰安婦問題はその性格上からも愉快なことではない。
日本政府の謝罪を契機に補償はわれわれが引き受け、この恥ずかしい過去の章を
もう閉じてはどうか」

 以前は慰安婦問題を自らの問題として「愉快ではない恥ずかしい過去」とする声があり、
それが堂々と言えた。
しかし今や海外にまで出かけて日本非難で高揚する愛国主義だけが蔓延(まんえん)するなか、
こんな“恥”の発想が出る余地はない。

 慰安婦問題はこの時、外交的には解決しているはずだ。
次の金大中大統領も1998年10月、小渕恵三首相との日韓共同宣言で日本が過去を謝罪、
反省したことを高く評価し「これで過去は清算された」と語っている。
慰安婦問題も外交問題にしないとの方針を明らかにしている。
これらは当時、日韓双方のマスコミで伝えられているが、韓国側はそれを無視し問題を
蒸し返してきたのだ。
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by ars_maki | 2014-02-08 16:30

韓国軍ベトナム残虐行為

 1969年10月14日、ベトナム南部の仏教寺院で韓国兵がリンソン寺で
ベトナム女性に戯れようとして住持僧に追出されるとこれに激怒,。
同僚を誘って銃器を乱射し、71歳の住持僧, 69歳の老僧, 41歳の女僧,
15歳の修行僧 等 4人を殺害した。

※韓国では、儒教以外の宗教を数百年間において差別している。
特に仏教(仏教徒)は迫害されているため、ベトナムの寺院の僧侶も
虫けらの如く虐殺した。

 1965年12月22日, 韓国軍作戦兵力 2個大隊がビンディンソン、クィニョン市に
500余発もの大砲を撃ち込んだ後、“きれいに殺して, きれいに燃やして,
きれいに破壊する”というスローガンの下、 捜索掃討作戦を繰広げた。
彼らはこの村で12歳以下の22人の子供, 22人の女性, 3名の妊産婦, 70歳以上
6名の老人を含む, 50余名を超える良民を虐殺した。

ある女性は、子供を出産して二日目に銃で射たれて亡くなりました.。
彼女の子供は軍靴で踏み潰され、まだ血が流れていたお母さんの胸の上に
投げ捨ててあった。
妊娠8ケ月に達していた友人は銃弾が貫通して亡くなり, 子宮が外に出ていた。
韓国兵は一歳になる子供を背負っていた娘を射ち殺して, 子供の頭を切り取って
地面に放り投げ, あとはいろいろな形に切り出してくぼみに捨てた。
彼らはまた、二歳の子供の首を折って殺し, ある子供のからだを持ち上げて、
樹に投げつけて殺した後、焚き火に乗せた。 そして、12歳の私は脚を射たれて倒れ、
くぼみに捨てられたのです…"。

韓国軍の虐殺現場は他にももっとある。
” 当時の報告によれば、66年 1月23日から 2月26日までの約一ケ月間、
猛虎隊 3個小隊, 2個保安大隊, 3個民間自衛隊により、この地域だけで、
計1200名の住民が虐殺されて, そのなかにはひとり残らず抹殺された家族が
8世帯にもなった. また、1535軒の家屋と850万tに達する食料が焼き払われ,
649頭に達する水牛が銃弾によって死んだり焼き殺された。

韓国軍の良民虐殺の手口
・住民たち(大部分が女性と老人, 子供たち)を一ケ所に集めた後、あるいはいくつの
グループにまとめて、機関銃を乱射して抹殺する。

・住民たちを一戸に追い詰めて銃を乱射した後、家と一緒に死亡者も生存者も全部燃やす。

・子供の頭を割ったり首をはね, 脚を切ったり四肢を切断して火にほうり込む。

・女性を強姦した後、殺害して, 妊産婦の腹を胎児が破れ出るまで軍靴で踏み潰す。

・住民たちを村のトンネルに追い詰めて毒ガスを浴びせて窒息死させる。

※韓国軍の大量虐殺が強行された所では、子供たちの口にキャンディやケーキが
含まされていた. 老人たちの口にはタバコが咥えられていた場合が多かった。
恐らく、村人を安心させながら一ケ所に集めるための手段だったようだ。
韓国の雑誌「ハンギョレ21」抜粋

1969년10월14일, 베트남 남부의 불교사원에서 한국병이 【린손】절에서
베트남 여성에게 까불려고 주지승에게 내쫓아지면 이것에 격노,.
동료를 유혹해서 총기를 난사하고, 71세의 주지승, 69세의 노승,
41세의 비구니, 15세의 수도숭등 4명을 살해했다.

※한국에서는, 유교이외의 종교를 몇백년간에 있어서 차별하고 있다.
특히 불교(불교 신자)은 박해되고 있기 때문에, 베트남의 사원 승려도
벌거지가 미치는 학살했다.

 1965년12월22일, 한국군 작전병력 2개 대대가 【빈딘손】, 【귀뇬】시에
500여 발이나 되는 대포를 몰두한 후, “예쁘게 죽이고, 예쁘게 태우고,
예쁘게 파괴한다”이라고 하는 슬로건 아래, 수색 소탕 작전을 펼쳤다.
그들은 이 마을에서 12세이하의 22명의 어린이, 22명의 여성, 3명의 임산부,
70세이상 6명의 노인을 포함하는, 50여 이름을 넘는 양민(백성)을 학살했다.

어떤 여성은, 어린이를 출산해서 2일째에 총으로 쏘아져서 돌아가셨습니다.
그녀의 어린이는 군화로 밟아 부수어져, 아직 피가 흐르고 있었던 어머니의
가슴 위에 내버려 있었다.
임신 8개월에 이르고 있었던 친구는 총탄이 관통해서 돌아가시고, 자궁이
밖에 나오고 있었다.
한국병은 한 살이 되는 어린이를 업고 있었던 딸을 쏘아 죽이고, 어린이의
머리를 베어내서 지면에 내던지고, 다음은 여러가지 형에 자르기 시작해서
구덩이에 버렸다.
그들은 또, 2나이의 어린이 목을 구부려서 죽이고, 어떤 어린이의 몸을
들어 올리고, 수에 내던져서 죽인 후, 모닥불에 말려들게 했다. 그리고,
12세의 저는 다리를 쏘아져서 무너져, 구덩이에 버림받았습니다 …”.

한국군의 학살 현장은 그 외에도 더 있다.
” 당시의 보고에 의하면, 66년1월23일에서 2월26일까지의 약1개월간,
맹호대 3개 소대, 2개 보안대대, 3개 민간자위대에 의해, 이 지역것만으로,
계1200명의 주민이 학살되어서, 그 가운데에는 혼자 남김 없이 말살된
가족이 8가구도 되었다. 또, 1535채의 가옥과 850만t에 이르는 식료가
깡그리 태워버려져, 649마리에 달하는 물소가 총탄에 의해 죽거나 태워 죽여졌다.

한국군의 양민(백성)학살의 수법·주민들 (대부분이 여성과 노인, 어린이들)을
1개 곳에 모은 후,혹은 몇의 그룹에 정리하고, 기관총을 난사해서 말살한다.

·주민들을 한집에 궁지에 몰아넣어서 총을 난사한 후, 집과 함께 사망자도
생존자도 전부 태운다.

·어린이의 머리를 깨뜨리거나 목을 자르고, 다리를 베거나 사지를 절단해서
불에 처넣는다.

·여성을 강간한 후, 살해하고, 임산부의 배를 태아가 깨져 나올 때까지
군화로 밟아 부순다.

·주민들을 마을의 터널에 궁지에 몰아넣어서 독가스를 끼얹어서 질식사시킨다.

※한국군의 대량 학살이 강행된 곳에서는, 어린이들의 입에 캔디나 케이크가
포함하게 하고 있었다. 노인들의 입에는 담배가 ⊙ 선택되고 있었을 경우가 많았다.
아마, 마을사람을 안심시키면서 1개 곳에 모으기 위한 수단이었던 것 같다.
한국의 잡지 「【한교레】21」발췌
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by ars_maki | 2014-02-07 09:09

日記

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第二次世界大戦中にビルマ(現ミャンマー)とシンガポールの慰安所で働き、
その様子をつづった朝鮮人男性の日記が、韓国で見つかった。
男性は、1942年に釜山港を出発した「第4次慰安団」に参加し、44年末に
朝鮮へ戻った。慰安所従業員の日記の発見は、日韓で初めて。
旧日本軍による従軍慰安婦問題では、数十年たってからの証言が多いが、
現場にいた第三者による記録は、冷静な議論をする上で貴重な資料と言える。

朝鮮近代経済史が専門で、慰安婦問題にも詳しい安秉直(アンビョンジク)
ソウル大名誉教授が見つけた。約10年前にソウル近郊の博物館が古書店で
日記などの資料を入手。これを安名誉教授が最近精査し分かった。
堀和生京大教授と木村幹神戸大教授が、日本語訳の作成を進めている。

日記は、朝鮮半島南東部・慶尚南道(キョンサンナムド)出身の男性が、
ビルマとシンガポールの慰安所で働いた43、44年に記した。漢字やカタカナ、
ハングルで書かれている。

男性は05年生まれで79年に死去。22年から57年までの日記が残る。
ただ、朝鮮で慰安婦募集に携わった可能性のある42年を含む8年分は、
見つからなかった。

男性は、43年7月10日に「昨年の今日、釜山埠頭(ふとう)で乗船し、
南方行きの第一歩を踏み出した」と記述。44年4月6日には「一昨年に
慰安隊が釜山から出発した時、第4次慰安団の団長として来た津村氏が
(市場で)働いていた」と書いた。

ビルマで捕らえた慰安所経営者を米軍人が尋問し45年11月に作成した
調査報告書には、42年7月10日に慰安婦703人と業者約90人が
釜山港を出港したとの記録がある。釜山出港の日付が一致し、
日記の正確性を裏付ける。

安名誉教授は「米軍の記録が第4次慰安団を指すのは確実だ。
慰安団の存在は、組織的な戦時動員の一環として慰安婦が集められた
ことを示している」と指摘する。ただ、安名誉教授は、韓国で一般的な
「軍や警察による強制連行があった」という意見に対しては、
「朝鮮では募集を業者が行い、軍が強制連行する必要は基本的に
なかったはずだ」との見方を示した。

また、日記には「航空隊所属の慰安所2カ所が兵站(へいたん)管理に
委譲された」(43年7月19日)、「夫婦生活をするために(慰安所を)出た
春代、弘子は、兵站の命令で再び慰安婦として金泉館に戻ることになった
という」(同29日)などと、慰安所や慰安婦と軍の関係が記されている。

一方、「鉄道部隊で映画(上映)があるといって、慰安婦たちが見物に
行ってきた」(43年8月13日)、「慰安婦に頼まれた送金600円を本人の
貯金から引き出して、中央郵便局から送った」(44年10月27日)など、
日常生活の一端がうかがえる内容もあった。

◇従軍慰安婦問題

第二次大戦中に日本が支配した植民地や占領地などから女性が慰安所に
集められ、日本の将兵から性的被害を受けたとされる問題。1990年に韓国の
女性団体が日韓両国に真相解明や謝罪、補償を求めたのをきっかけに
社会問題化した。日本政府は93年8月、慰安所設置や慰安婦移送に
旧日本軍が直接、間接に関与したことを認め、「軍の関与の下に女性の名誉と
尊厳を傷つけた」と謝罪する「河野談話」を発表した。ただ、女性の連行段階での
軍の関わりについては、第1次安倍内閣当時の07年、「政府が発見した資料には、
軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示す記述は見当たらなかった」という
答弁書が閣議決定された。

mainichi.jp/shimen/news/20130807ddm001040089000c.html

The Japan Times on this diary



Korean’s war brothel diaries offer new details

JIJI




Aug 13, 2013
Article history




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SEOUL – The diaries of a Korean man who worked in wartime brothels for Japanese soldiers in Burma and Singapore during World War II have been found in South Korea.

Researchers believe the diaries, the first ever found that were written by someone who worked at a “comfort station,” are authentic and provide actual details of the brothels and the lives of “comfort women.”

They also show that the Imperial Japanese Army was involved in the management of the facilities, which the Japanese government acknowledged in a 1993 statement by then-Chief Cabinet Secretary Yohei Kono.

The Korean man worked as a clerk in the brothels. Born in 1905, he died in 1979 before the comfort women became a thorny issue between Japan and South Korea.

A South Korean museum obtained the diaries covering 1922 to 1957, with several years missing, from a secondhand bookstore.

Ahn Byung-jik, a professor emeritus at Seoul National University, examined the portion for 1943 and 1944 jointly with two Japanese researchers, Kyoto University professor Kazuo Hori and Kobe University professor Kan Kimura. Their joint research will be published in South Korea in the near future.

One passage describes how two prostitutes who had quit because of their marriages had been ordered to return by army logistics. He also said he submitted daily reports to the logistics command.

The man noted that the manager of one of the comfort stations was a Korean from Chungju in the central part of the peninsula.

He wrote that he had withdrawn ¥600 from a prostitute’s account and remitted it at a post office on her behalf, indicating that comfort women were paid.

In a glimpse of their daily lives, the man wrote that “comfort women went to see a movie screened by the railroad unit.”

The diaries are “highly credible,” Kimura said, noting there was little possibility of alterations because the man died before the comfort women issue became a source of contention.

His accounts conflict with assertions by some Japanese that comfort women were involved in a purely private business, and by some South Koreans that the women were completely enslaved.

A portion is missing for 1942, when many girls and women were believed to have been recruited. But what he wrote in later years describes events that are believed to have happened in 1942.

“On this day last year, I boarded a ship at Busan port and took the first step of my southbound journey,” the man wrote in the entry for July 10, 1943.

On April 6, 1944, he wrote, “When a comfort team left Busan two years ago, Mr. Tsumura, who came as head of the fourth comfort corps, was working in a fresh food association.”

The diaries “confirmed that the fourth comfort corps had existed,” Ahn said. “It has also become certain that the Japanese government had organized comfort teams and took women to the frontline.”

But Ahn is skeptical about the view that the Japanese military and police took women by force from the Korean Peninsula. “I do not think such a thing was possible,” Ahn said, noting that Korea at the time was “a well-ordered society, although it was a colony.”

The 1993 Kono statement said that the Imperial Japanese Army “was, directly or indirectly, involved in the establishment and management of the comfort stations and the transfer of comfort women.”

In the statement, the Japanese government also extended its “sincere apologies and remorse to all those . . . who suffered immeasurable pain and incurable physical and psychological wounds as comfort women.”

In 1995, Japan set up a fund to support former comfort women, called the Asian Women’s Fund, with financial support from the government.

Japan’s official position is that the comfort women issue has been resolved because South Korea gave up all individual claims under a 1965 pact on the normalization of relations between the two nations. Seoul does not consider the comfort women issue to be covered by the pact.

The Korea Herald-Asia News Network

Korean’s war brothel diaries offer new details

JIJI

Aug 13, 2013
Article history

SEOUL – The diaries of a Korean man who worked in wartime brothels for Japanese soldiers in Burma and Singapore during World War II have been found in South Korea.

Researchers believe the diaries, the first ever found that were written by someone who worked at a “comfort station,” are authentic and provide actual details of the brothels and the lives of “comfort women.”

They also show that the Imperial Japanese Army was involved in the management of the facilities, which the Japanese government acknowledged in a 1993 statement by then-Chief Cabinet Secretary Yohei Kono.

The Korean man worked as a clerk in the brothels. Born in 1905, he died in 1979 before the comfort women became a thorny issue between Japan and South Korea.

A South Korean museum obtained the diaries covering 1922 to 1957, with several years missing, from a secondhand bookstore.

Ahn Byung-jik, a professor emeritus at Seoul National University, examined the portion for 1943 and 1944 jointly with two Japanese researchers, Kyoto University professor Kazuo Hori and Kobe University professor Kan Kimura. Their joint research will be published in South Korea in the near future.

One passage describes how two prostitutes who had quit because of their marriages had been ordered to return by army logistics. He also said he submitted daily reports to the logistics command.

The man noted that the manager of one of the comfort stations was a Korean from Chungju in the central part of the peninsula.

He wrote that he had withdrawn ¥600 from a prostitute’s account and remitted it at a post office on her behalf, indicating that comfort women were paid.

In a glimpse of their daily lives, the man wrote that “comfort women went to see a movie screened by the railroad unit.”

The diaries are “highly credible,” Kimura said, noting there was little possibility of alterations because the man died before the comfort women issue became a source of contention.

His accounts conflict with assertions by some Japanese that comfort women were involved in a purely private business, and by some South Koreans that the women were completely enslaved.

A portion is missing for 1942, when many girls and women were believed to have been recruited. But what he wrote in later years describes events that are believed to have happened in 1942.

“On this day last year, I boarded a ship at Busan port and took the first step of my southbound journey,” the man wrote in the entry for July 10, 1943.

On April 6, 1944, he wrote, “When a comfort team left Busan two years ago, Mr. Tsumura, who came as head of the fourth comfort corps, was working in a fresh food association.”

The diaries “confirmed that the fourth comfort corps had existed,” Ahn said. “It has also become certain that the Japanese government had organized comfort teams and took women to the frontline.”

But Ahn is skeptical about the view that the Japanese military and police took women by force from the Korean Peninsula. “I do not think such a thing was possible,” Ahn said, noting that Korea at the time was “a well-ordered society, although it was a colony.”

The 1993 Kono statement said that the Imperial Japanese Army “was, directly or indirectly, involved in the establishment and management of the comfort stations and the transfer of comfort women.”

In the statement, the Japanese government also extended its “sincere apologies and remorse to all those . . . who suffered immeasurable pain and incurable physical and psychological wounds as comfort women.”

In 1995, Japan set up a fund to support former comfort women, called the Asian Women’s Fund, with financial support from the government.

Japan’s official position is that the comfort women issue has been resolved because South Korea gave up all individual claims under a 1965 pact on the normalization of relations between the two nations. Seoul does not consider the comfort women issue to be covered by the pact.
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by ars_maki | 2014-02-01 10:02

キム・ボクドン

2013.9.20 フランスにて元慰安婦のキム・ボクトンが
「朝鮮戦争当時日本軍に無­惨に踏みにじられて悔しい思いをさせられた」と証言

ところが、この記事が書かれた、朝鮮日報韓国版・・・日本で突っ­込みが入ると、
あわてて朝鮮戦争当時を日帝強占期時代に改ざんする。
日帝慰安婦と朝鮮戦争時の洋公主は、どちらも売春婦。後者は強制連行の証拠有り。
洋公主は朴正煕率先の下で外貨獲得のためにつくられた公設売春施設で
働く売春婦。洋公主の悲惨さを知ってください。


韓国の元慰安婦、キム・ボクドンさん(88)が14日、韓国国会で行われた外交統一委員会の国政監査に出席し、「朴正煕大統領の娘が大統領になったが、(慰安婦問題について)これといった発言が一言もない」と朴槿恵大統領を批判した。複数の韓国メディアが報じた。

  国政監査に証人として出席したキムさんは、朴大統領について「朴正煕大統領の時に確実に解決していたら、年を取ってから(日本に)謝罪しろとわめき立てることもなかっただろう」と述べ、朴大統領に慰安婦問題について積極的な対応を取るよう求めた。

  キムさんは最近、スイス・ジュネーブで開かれた国連人権理事会に出席したことから「国連に行って各国代表者たちに証人として日本について話した。すると『これまでどうして韓国政府は解決しなかったのか』と人々に驚かれた」と述べ、「(韓国政府は)これまで何をしていたのか。他国で韓国を批判することはできなかった」と自国政府の対応に強い不満を示した。
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2013&d=1016...
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by ars_maki | 2014-01-30 10:51

シンドラーのリスト

David M Crow教授はホロコースト研究者。映画になったオスカー・シンドラーを研究し、
伝記を上梓しているが、数あるシンドラーの伝記のなかでもっとも包括的である。
以下、研究の成果を見てみましょう。


*リストそもそもシンドラーのリストはなかった。
映画でリストが出てくるのは、ポーランドが危なくなり、チェコに工場を移転させるところ。とはいえ9つのリストがある。4つはMarcel Goldbergが作成。Goldbergは警官でユダヤ人の移送に関わっていたSSの補佐をしていた(賄賂受け取りなどで訴えられた)。シンドラーはクロウ教授に名前を挙げたが、いずれも見当たらなかった。残りの5つのリストは誰が作成したのか不明。
シンドラー自らがイスラエルにあるユダヤ人に人道的行為を行った人々を褒賞するYad Vashemに自らを売り込んだものと思われる、とクロウ教授は考える。

他に、クロウ教授が突き止めたのは
* シンドラーはドイツに敵対する情報を収集するスパイだった
* ドイツがポーランド侵攻計画の中心にいた
* ポーランドでユダヤ人の土地を奪い、抵抗するユダヤ人を殴らせた
* シンドラーは1939年にクラカウに来た絨毯バッグ製造者だった。
* ドイツのチェコスロヴァキア侵略前に懐柔策を出し投獄され、チェコ
スロヴァキアでは危険なスパイで、戦争犯罪人として訴えようとした。
* 婚姻外の子供が2人いる。
* 映画では愛人と一緒に丘からゲットーのユダヤ人が追い払われてゆく場面がある。シンドラーの良心が目覚めるといいうところだ。しかし、あの丘は実際にはない。
* 映画ではユダヤ人のための善き非ユダヤ人として1958年にYad Vashem に指名されたとされているが、実際に指名されたのは1993年になってからだった。シンドラーは1974年に死亡。

"Steve is a very wonderful, tender man," Mr. Crowe said of Mr. Spielberg, "but 'Schindler's List' was theater and not in an historically accurate way. The film simplifies the story almost to the point of ridiculousness." Mr. Crowe also said that he admired Mr. Keneally's novel.
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by ars_maki | 2014-01-29 22:17

The Tungchow Incident

On July 27th in 1937 took place Tungchow Incident,
in which the Chinese army assaulted on the Japanese
civilians and troops, killing 223 out of 385 Japanese residents.
They killed babies and children, raped girls and women.
They inserted brooms in their genitals.
Those shocking photos are online, but here I’d like
to have Mr Ishijima’s last words、which were reported
in Die Berliner Illustrierte Zeitung, issued October 21st
in 1937.
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Ein erschuetterendes Dokument

“Es lebe der Kaiser ---- ich sterbe einen shoenen Tod”
Das waren die letzen Worte der japanischern Konsular-
polizisten Ischijima. Er vertraute die seinen Notizbuch
an, ehe er starb. Mit 300 Landsleuten wurde er ein
Opfer der Scherdensnacht von Tungigschau am 28. Juli,
als die Soldatesta des “Friedenserhaltungs-Korps---auf die
Nachricht von einem angeblichen grossen chinesichen
Siege hin --- unter den Japanern Ortes im Osten von
Beiping ein furchtbares Gemetzel anrichtete.
Das Notizbuch das den letzen herzlicen Gruss des
Sterbenden enthielt, war blutbefleckt und einen Geshoss
durchloechert, als man es fand.

A shocking document

“Long live the Emperor ---I die a beautiful death.”
These are the last words of Mr Ishijima, policeman at
the Japanese Consulate in Tungchow. He left his last
words in his notebooklet before he died.
On July 29th (in 1937) he became one of the
300 Japanese victims of the massacre; the Chinese
East Hopei Army slaughtered Japanese civilians and
troops, allegedly claiming the overwhelming victory
of the Chinese.
The notebooklet, which bore the last farewell of
the dying man, was bloodstained and had a bullet hole,
when it was found.

1937年7月27日、通州事件が起きました。
日本人居留民の385名のうち223名が虐殺され、
女性はほとんど強姦されて殺害されました。
通州で薬品会社がアヘンを製造ており、
朝鮮人も密売に加わっていました。
朝鮮人慰安婦も居たので、強姦されています。
東京裁判では取り上げてもらえませんでした。

これは、ドイツの雑誌「Die Berliner Illustrierte Zeitung」
1937年10月21日号に載った通州日本領事館付の警察官
だった石島警察官の手帳です。
石島さんは、死ぬ直前に「天皇陛下万歳」と書きました。
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by ars_maki | 2014-01-24 12:06

日本の誇り

Rie Solisramirez さんより

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著者の井上和彦氏は、「これまで私が自分の足で歩き回って見聞きしてきたアジアには、日本のマスコミが声高に叫ぶ”反日”の声も、また学校で教わるような侵略の歴史も、いまもってお目にかかったことがない」という。当時多くのアジアの人々は日本軍を大歓迎し、とりわけ欧米列強の植民地支配に苦しめられてきた東南アジアの人々は、宗主国の軍隊を次々と打ち倒していく日本軍の姿に拍手喝采したというのが事実なのだ。東南アジア諸国では、日本の近代戦争によって独立を勝ち取った喜びや日本軍人に対する敬意と感謝の声を耳にすることが多い。井上氏は、先の戦争を賞賛する声や日本軍人への敬意を完全に黙殺してきた日本のマスメディアに対して怒り、「いまこそ、封印されてきた近現代史の真実を解き明かし、日本人としての自信と誇りを取り戻さなければならない」と主張する。

●ラダ・ビノード・パール極東国際軍事裁判判事
「同じ有色人種である日本が、北方の強大なる白人帝国主義ロシヤと戦ってついに勝利を得たという報道は、われわれの心をゆさぶった。(中略)私はインドの独立について思いをいたすようになった」

●S・S・ヤダヴ全インドINA事務局長
「インドの独立には国民軍の国への忠誠心が大きな影響を与えました。しかし我々国民軍を助けてくれたのは日本軍でした。インパールの戦争で6万の日本兵士が我々のために犠牲となってくれたのです。我々インド人は子々孫々までこの日本軍の献身的行為を決して忘れてはいけないし、感謝しなければならないのです」

●グルモハン・シン氏
「日本の兵隊さんは命を張って私たちを戦場から逃がし、戦ってくれました。いまこうして私たちが生きていられるのも、みんな日本の兵隊さんおかげだと思うと感謝の気持ちでいっぱいになります。一生この気持ちは忘れることはできません」

●モヘンドロ・シンハ村長
「日本の兵隊さんは飢えの中でも実に勇敢に戦いました。そしてこの村のあちこちで壮烈な戦死を遂げていきました。この勇ましい行動のすべては、みんなインド独立のための戦いだったのです」

●P・N・レキインド最高裁弁護士
「太陽の光がこの地上を照らすかぎり、月の光がこの大地を潤すかぎり、夜空に星が輝くかぎり、インド国民は日本国民への恩は決して忘れない」

(第1章【インド】より)
内容(「BOOK」データベースより)
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by ars_maki | 2014-01-24 03:24

靖国神社とヴァチカン

ローマ法王庁・ヴァチカンには、昭和の殉難者(戦犯とされた)1068柱の霊が祀られている。連合国の手で「戦犯」として裁かれたABC級すべての日本人「法務死」者の霊が、世界のキリスト教カトリックの総本山ヴァチカンに、他ならぬローマ法王によって祀られたのである。その多くはキリスト教信者であった連合国側にとって、これほどの皮肉はない。皮肉というよりは、勝者の驕りに対する「神の戒め」であるとも言えよう。

時のローマ法王・パウロ6世に、(戦犯とされた)日本人殉難者のためにミサを、と訴えたのは仏教徒の仲田順和師であった。昭和50(1975)年にヴァチカンを訪れた折に、かねてより心を痛めていた「戦犯とされた人々」の鎮魂と慰霊のために、宗教の違いを超えて願い出たのである。

先代座主でもあった順海大僧正は、学徒兵や殉難者の法要を欠かさず、「七戦犯の鐘」など慰霊の鐘も護持している先代座主の遺志をついだ品川寺の仲田順和師の願いを、パウロ6世は快く承諾した。

しかし、喜んで帰国した順和師にその後届けられたのは法王の訃報であった。
その後を襲ったパウロ1世も急逝し、異教徒の願いは空しく閉ざされたと思われた。

その順和師のもとに、ヨハネ・パウロ2世から親書が届けられたのは5年後の昭和55年4月内容は「5年前の約束を果たしたい」との思いもかけぬものであった。ローマ法王庁は、異教徒の願いを忘れてはいなかったのである。

パウロ6世の真心に応えようと、帰国直後から作製を依頼していた五重塔に
殉難者1068柱の位牌を納め、ヴァチカンに奉納されたのは同年5月のことである。

5月21日には仲田・星野両氏も参列し、法王パウロ2世のもと昭和殉難者のための荘厳なミサがヴァチカンで行われた。
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by ars_maki | 2014-01-22 01:17